昭和五十六年一月二十九日 朝の御理解
御理解 第九節
天地金乃神は宇旨嫌をせぬ信心は心を狭う持ってはならぬ心を広く持って居れ世界を広う考へて居れ世界は我が心あるぞ。
世界を広う考えるという事は、どういう事だろうか、昨日、上野先生がここでお届けしますのに、昨日、一昨日あちらの大分の豊後森の近所から一家をあげて参ってくるんです、そりあまあ用があるだけですけれども御信者が居りますがそこの息子さんが今度高校受験を致します。前日お参りをしてまいりましたそうですけれども、私が留守、あのもう下がっておりましたから上野先生がお取次させて頂いた。
まあお父さん達の話を聞いているのか、こゝから出ておる御本をまあ読んで勉強してしておるのか、お父さんなあんなふうだけどもそりあすばらしい事云うのと云って改めて上野先生から聞かせて頂いたんですが、いいんや私もお取次ぎさせて頂きまして驚きましたというんです。というのが、「合楽の御信心はあの天地を天地として行かしてゆく神様ですから、天地の間の事はこの神様にお願いする他にないと僕は思います」こう云う。天地の間におきてくるすべての事、これは天地の親神様にお願する他ないと思いますと僕は今度の四つの高校を言われておるんですけれども迷うて迷うた末これは天地の親神様の御指示を受けるのが本当だと思うて参って来たというたんだそうです。
そんなら今日は親先生がおられんから明日電話を僕かけますから親先生にお願いしておうがいをしておいてくれというて、こんなすばらしい単純な考え方というのがすばらしいですね。天地の間の事は何でもこの神様にお願いする他ない、しかも人間の幸はこの神様のお許しを頂かなければ幸になれないのだから、この神様の御神意どおりに動くが僕は一ばんよいと僕は考えましたというんです。そうなんですよ。ぎりぎり金光教の信念をして信ずるという事は、今皆さんが奉上しとられる祈念詞もやっぱりそういう事が謳ってございますでしょう。それこそ天地は真だと、だから真をもってすればすべての事が整うとお詞の中にあるでしょう。天地が真理だと、だから真をもってすれば物事整わぬ事がないのです。
そこん所に着眼したというのが分かったというのかそりあお父さんはあんなふうじあけどいばらしい信心が出けるばいというてまあ昨日上野先生とお話をした事でございます。皆さんどうでしようか。この神様じあなからなきあこの神様もござるといったような例ば教祖様はそこを遠大にしかも豊かに大きく宇旨嫌いはせぬ、あれがよいの悪いのとは云わんけれども此の方の祈る所は世界といわゆる天地と一つだと世界は和賀心にあり、さまざまな事があってよいけれども、そういう大きな願いというのは今その昨日上野先生がお取次したという高校生のそういう考え方と同じのようなもんじあなかろうか。ねえ、天地の事は天地は真だ真だからこちらが真になれば寄りて集はない事がない。
だから天地の事一切をこの神様におまかせしたが一ばん良いと思うから御神意を頂いて決めます、それで上野先生が持ってまいります。あの書いてるのを持ってまいりましたから私が丸をつけてやりましたらすぐ又あちらから電話がかかって来た、上野先生宛にかかってきたで上野先生が受けて、何々という高校がいいと云うてこゝに丸の印を頂いておりますと云うたら大変電話の向こうで喜んだと、僕もその事を願うとったら、真で願うとった事が成就するという意味の事を云うて喜んだという事です。すばらしいでしようが、ねえ。
だから、拝みさえすりゃあええおかげ頂きさえすりぁええ参りさすりあえ、じぁないのです。そこに、本当に天地と一体になられる道をいわば教祖は説かれたんです。これも昨日は竹葉会でございましたが、皆さんいろいろ発表聞かせて頂いた中にこれは発表というわけではなかったけれども、光橋先生が側に座っとりましてから、先日神愛会の時に、会にはちょっと遅れて、私が下がってから見えておりましたのです。それで光橋先生がお取次させて頂いたわけなんですけれども、山口の長田という教会長先生です。先達って御祈念中に十三日会の教祖大坪総一郎という事を頂いたと云う私はそれを聞いて本当にそうだと思うですね。十三日会は云うならば、十三日会というもし宗教が出けるならばその教祖です私は、ねえ、そして又話した事でしたらどこの十三日というのは別にそうしたおしらせを頂いてしたのではないけれども、小倉の初代桂松平先生が正月の十三日にお国替えになられた。だから十三日を帰幽日として毎月御本部へ月参りをさせて頂いた。
そして十三日の日小倉に途中下車して教会から奥城参拝させてもらって御本部参拝しておった。してみるとそれなら元は十三日にお国替えになった桂先生という事になるというて話した事でした。ただ十三日会がです、まぁいうならば大変な教会にとってそれこそ血の涙の出るようなはがいゝ思いをするような事がらです。けれども、神様にその事をお届けさせて頂いておったら神願成就の日と頂いた。それから皆勢い立ってその十三日という日を今日の合楽でいう十三日会にだんだん成長してまいったわけでございます。十三日会の発展というのはいうなら天地の親神様の本当の心が、十三日会の中にあるんです。そのいうならば十三日会。本当に人間誰しもが助かられる。しかも因念とか罪とかといったような過去宗教が云うてきたような雑儀な事柄でも十三日というのは、天地の神様の放生会の日、放生会の日だとこう云われております。合楽ではそう云っておるわけですね。
放生会の日というのがありますね、放生というのは、善通寺の御本山のお墓の横に大きな古い池がございました。それはこんな薮の中にどうしてこんな池があるじぁろうかとあの思うとりましたら、ある時ばばがこゝはね皆魚を取った人達がこゝに放生に来る所だ助けにくる、取った魚をみんな放生する。と今そげなことする者は居らんばってん大体こりあ放生池というというて教えてもらった事があるですがね、そうなんです。もうこれは食べられんならん、殺されんならんという人程の人でもですそれを放生してやる。どんなに今まで宗教が云うてきた因念とか罪さか云うてもです罪深い人であろうが因念深い人であろうが詫びれば許してやりたいのが親心である天地の親神様にお詫びをして放生して頂ける程の日なんだ。十三日会というのは、その内容としてその放生会という事、もうこの御理解頂いた時なんかはもう、兎に角私は驚きましたが字引きでそれを引かせて頂くと、金光何んとか、金光名教か、字引きにそうあるんです。
そりあ勿論金光様の金光ではないでしょうけれども字は金光です、金光です、金光明教流水かね流水、金光明教流水の儀とあるんです、流水というのは合楽的に頂いてもう過去の事は水に流してやるという。金光教というのがいかに名教であるかと云う事。教祖金光大神が説きに説かれた例ば今日の御理解、兎に角世界を和賀心、天地と一心であり一体である程のいうならそういう大きな、今の高校生の話じぁないけれども天地の真というものは人間氏子を助けにはおらん、救わずにはおらん、幸にせずにはおかんというような内容があるんだけれどもそこが気付かず、分らずにさまざまな雑儀を受けておるのである。そこで人間が幸になる為は、この神様の御神意のまにまに動く事が間違いがないというのがその高校生、昨日の高校生が云うておる事なんです。
だから僕は天地の親神様のお指図どおりに学校を決めたいとこう云う。“天地に真あり”だから真をもってすれば天地とつながる金光名教流水の儀、いうならばそこに神様を分からせてもらって詫びれば許してやりたいのが親心にいうならば救われていけれる手立、それを合楽では十三日会というわけその十三日会というのは私共の一ばんいうならば教会として悲しい日があった。例ばそのようにお参りが出来ないと云うのだからもう月一回の楽しみのいうなり十三日の御本部参拝をけれどもそれを神様にお願いさせて頂いておったら十三日、今日こそが神の願が成就する日ぞと頂いた。初めの間はどういう事か分からなかった。ただ御建築の儀がおこったりするからはあ御神意が御神願が成就するという事が御教会がこんなに立派に出けることなあと、その十三日会を境に御本部参拝の費用を皆がお供えした。当時はまあ安かったですけれどお参りしたと思うて旅費をお供えして、今日は一日信心の共励でもしようと始まったのがこれは善通寺の原さんがおしらせ頂いて始まった会です。そして今日の盛大をだんだん見るようになった。
そして御建築とか御造営とかというだけのそんな小さいものではない神願が、いわゆる世界津々浦々に、和賀心時代を創る十三日会の信心精神が全世界に亘ってまいりましたら、どんなにすばらしい人間の幸が頂ける事だろうかという程の事、今日の御理解じぁないけれども世界は和賀心にあるというような信心、しかもその世界を和賀心にしての祈りとか願いというものが和賀心時代を世界に、十三日会を世界にと合楽の人達が祈っておる願っておる程の大きな事になってきた。そこで私共はその高校生のその言葉じぁないですけれども、天地の間におきてくる事の総てはこの神様にお願いしたが一ばんよいお願いする、でも天地が真そのものだからこちらが真にならなければならない。もうこれで決まってしまう。そういう大きないうなら着眼点をその根底に持っての信心でなからなければなりません。
ならそういういうならば十三日会の精神いうものを私共の身につけていくという事。成る程十三日会の教祖大坪総一郎という事になるですね、新めて私はそれを思うた。こりぁ今まで誰も云うてきた事のない事だった。もう本当に十三日なんという日は世界の悪目のように云うて来た。それをもうそれこそ手の平を返すように天地がひっくり返るような感じです。十三日は神願が成就する日という尊い有難い日という事に云う事を云うて、そして、いわゆる金光名教流水の儀式といったような信心が世界にいうならば広がっていかなければならない。それで合楽に御縁を頂いておる人達は、いよいよそういう精神を基にしての信心生活が出けなければならいという事になりますよ。
今日は御神前で、上野先生と光橋先生を頂いたんですよ、どういう事じあろうかと思いよったら、上野愛子というのはいつも天地の親神様の代名詞のようにして、こゝでは頂くでしよう。それから光橋えろうというのはいよいよすばらしいお取次の橋というね。光りの橋、しかも光に輝くような、それこそ合楽で云われるあの親善美に輝く世界を目指す。貧争病のない世界を目指す。それを目指すという事は今日のような御理解を根底にしてじぁなからなければ頂けんと思うですね。どうぞ